ジェイパーク(J-PARC)の中間評価報告書が文科省審議会にあがりました。終戦記念日8月15日。この日に母の葬儀が行われた。
終戦記念日8月15日。この日に母の葬儀が行われた。
それは、1994年の終戦記念日だった。
脳出血で病院の集中治療室に運ばれた母の葬儀が行われた日だった。
その年、1994年は猛暑だった。
前年の1993年が冷夏の年で、暑さがひときわ増していた。
母が倒れたのは8月7日だった。
猛暑のために、体が耐えきれなくなったのか、と感じた。
病院に搬送された翌日、水戸から明石に駆け付けた。
病院の医師から、一週間もたないよ、延命装置つけますか?と言われた。
発見されてから半日近く経って、手足の硬直が始まっていた。
延命装置はつけたが、チアノーゼが起き尿が血で赤くなっていた。
8月12日に亡くなった。
病床につきそっていた私がほんのわずかの間に席をはずした時、
看護婦が容態変化をつげた。
午後9時4分が死亡時刻。
私が離れたすきに天に昇ってしまったのか、と感じた。
夏の暑い日に、買い物袋をさげて歩く後ろ姿が目に焼き付いている。
1940年辰年生まれ、ある龍が死んだ。
1986年 チェルノブイリ事故
1987年 水戸巌父子3人(反原発活動家)アルプス遭難死亡
1994年 五條氏母死亡
1995年 もんじゅ事故、オウムサリン事件、阪神淡路大震災
1996年 旧動燃西村次長自殺
1997年 東電OL事件、東海村ジェイパーク名称採用(
ジェイパーク(J-PARC)の中間評価報告書が文科省審議会にあがりました。
大強度陽子加速器施設(J-PARC)中間評価報告書 (PDF:3,494KB) PDF
https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/gijyutu/gijyutu4/043/houkoku/__icsFiles/afieldfile/2019/03/01/1413957_1.pdf
過去十年余りの間に開催された原子力関係の研究計画・評価分科会の一覧
私は、日本原子力研究所に勤めてすぐ、水戸の社宅に住んでいた。
通話の最中に母が、電話の会話が聞こえない、と言う。
かけなおせば通話ができるようになったが、
そのうち、電話がぷつっと切れるようになった。
そのうち、社宅(原研住宅)の近くで不審な人物をみかけた。
このときに、盗聴器をしかけたのだろうか?
あるいは、NTTの回線施設にしかけたのだろうか?
この日から原研の職場で盗聴会話のリークが大っぴらにはじまった。
物理部の部長であった石井三彦が上司であったが、
この人物が私の通話内容を職場のなかで披露する、というものだった。
原研物理部の核物理部門、自由電子物理部門、タンデム加速器部門など、
総勢50名近くの人間がこの盗聴話しの披露に加わっていた。
そのうち、室長の岩本昭がコンピューターのパスワードを
ハッキングしていることがわかった。
主任研究員の池添博が私宛の郵送物やメールの中身を盗み見ている
こともわかった。
通勤途中にバスの中で尾行とおぼしき行為をしているものも見かけた。
通勤途中、那賀郡の消防署の前で消防車のサイレンが
大音量で流れているのに出くわした。
東京都内を歩行中、往来の真ん中で私に向けて
カメラ撮影をする人物を見かけた。
水戸市内の文房具店舗で、あとをつけてきた二人組と遭遇した。
通勤途中に水戸市内から原研東海村まで尾行し来る車両をみかけ、
途中で待ち伏せして、後ろから写真を撮った。
これらの、盗聴事件を水戸地裁の法律相談所にもちこんだ。
水戸市内の弁護士二人にも案件として報告した。
1999年には、東京弁護士会の海渡雄一にも面談して報告した。
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